石油の歴史No12【アラビアのロレンスとイラク国王ファイサルの誕生】

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1900年初め、崩壊寸前のオスマントルコ帝国に対し、イギリス、フランス、ドイツが石油利権を求めて争っていました。

そしてドイツ銀行率いるドイツグループが鉄道建設の調査を行い、その工事費を負担するドイツ銀行が代償として鉄道沿線の油田開発の権利を得ていました。

1909年青年トルコ党が革命を起こし、アブダール・ハッド国王が追放されます。

トルコの鉄道を支配するドイツとトルコ銀行を支配するイギリスが石油採掘権を巡って対立し、後継者のモハメッド五世はどちらに権利を与えれば良いか迷っていました。

この難しい仲裁を買ってでたのが、アルメリア人で大金持ちの天才的な交渉能力を持つ、カルースト・グルベンキアンでした。

ライバル同士のイギリスとドイツ、さらにロイヤル・ダッチ・シェルの事業参加比率をまとめ上げて1912年にトルコ石油を設立しました。

しかし、1914年11月トルコがドイツ側について参戦すると、イギリスはすかさず、トルコ石油をその支配下におき、イギリスとドイツの協力関係もトルコ石油もご破算になりました。

1915年3月18日英仏連合艦隊はトルコ上陸をおこない、トルコにとって重要なトルコ西部をおさえました。

また、イギリスはメッカの太守フセインを口説いて、何人かのイギリス人の軍事顧問をとともにトルコに対するアラブの反乱をおこさせました。

そのうち最も有名なのがT・E・ロレンス、つまりアラビアのロレンスです。
フセインの三番目の息子ファイサルは広く最も有能な人物とみなされていました。

ファイサルの信頼を得たロレンスはトルコに脅威を与えるためベトウィンを移動させます。
そして苦戦の末に勝ち取ったダマスカスに覇者としてファイサルとともに乗り込んだのです。

ロレンスがダマスカスに入ったのは五十万のイギリス兵を率いる将軍アレンディが到着する直前でした。

アレンディはカイロから海沿いの道を行軍してきたのです。そして、さらにシリア、メソポタミアを横断し、バクダットを占領します。

崩壊寸前のトルコに代わり中東を支配する証は統治委任状です。英仏両国がこの中東支配に深い関心を寄せていました。

イギリスとフランスはドイツの敗戦が決定する前に、中東の分割統治の方法について既に話合いがついていました。

アラブ諸国の思惑など考えずに1916年に締結されたこの条約は有名なサイクス・ピコ協定と呼ばれるものでした。

この秘密協定はオスマントルコの旧アラブ保護領の分割方法を厳格に規定していたのです。
フランスはシリア、レバノン、モスル、イギリスはパレスチナ、ヨルダン、イラク委任統治国になると戦争終結前に既に決定していたのです。

1917年、西部戦線のベルダン要塞では200万人ものフランス人をはじめとする連合国とドイツ人が殺し合っていました。

ガソリンを大量に消費する飛行機や戦車とういう新兵器が活躍するようになると石油の消費量は急激に増えました。

1917年12月フランスはガソリンの需要がこのまま増え続けると3ヶ月で底をつくという報告を受け愕然とします。

ドイツは連合国の港に向かう船はたとえ中立国の船でも警告なしで残らず撃沈していました。
貨物船とともに連合国が失った石油の量は1917年4月だけで85万トンにも登りました。
アメリカのタンカーは撃沈を恐れ、大西洋の運行を拒んでいました。

1912年12月フランスの首相クレマンソーは必死の思いで、アメリカ大統領ウイルソンに“石油の一滴は血の一滴に値する”と電報をうちます。

ウイルソンはフランスに手を貸す決断をし、アメリカのタンカーは再び大西洋を航行し始めました。

一方、イギリスはアングロ・ペルシャに石油増産を急がせます。1913年4万トンだった石油生産量が1918年には100万トンに達していました。さらにアバダンには飛行機燃料専用の製油所まで建設しました。

当時、石油の大輸出国ロシアは内乱で壊滅状態でしたから、連合国側にとって、アメリカやイラクからの石油の供給は死活問題でした。

1917年3月の3月革命でロシア皇帝は倒され、ケレンスキー率いる臨時政府が成立します。
そして、6ヵ月後の11月革命でロシアの旧体制は一掃され、レーニンソビエト連邦を組織して資本主義廃止を宣言しました。

西側では1918年、夏のフランスの猛反撃とドイツ革命の勃発で連合国側を勝利に導きました。
1919年にベルサイユ条約が締結され、敗戦国から取り上げた戦利品を配分する場を戦勝国に提供することになりました。

イギリスはファイサルをオスマントルコ帝国からの独立国のひとつ新国家シリアの国王に据えたが数ヶ月後には戦後の合意により、シリアの支配はフランスの手に渡ってしまい、ファイサルは突然退位させられて、ダマスカスから追い出されてしまいました。

イギリスは元オスマントルコ帝国内の三つの地方からなるイラクという新しい国家のための君主を必要としました。

この地域での政治的な安定は石油の確保、ペルシャ湾の防衛、インド、オーストアリア、シンガポールなどの大英帝国内の航空航路確保のために必要でした。

当時のイギリスはこの地域を直接統治はしないで、イギリスが援助する立憲君主制のアラブ政府に統治させることにして失職中のファイサルを1921年8月にイラク国王に据えたのでした。