北朝鮮帰還船で帰った中学の同級生達

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北朝鮮による拉致が明るみに出てから、2006年で4年経ちますがまだ拉致問題は解決していなく、人権問題として政府・国民は関心を寄せていますが、あまり、話題にならない北朝鮮帰還事業で北朝鮮に行った「在日朝鮮人と日本人配偶者」の問題があります。

私の実家の山形県小国町に戦前から小国電興(現在の東芝セラミックスと日本重化学工業)がありますが、戦前、小国電興に労働者として朝鮮から来て小国に住んでいました。

昭和34年(1959年)12月、在日朝鮮人北朝鮮帰還が始まったのは私が中学二年生のときでした。その3年前の小学校の私のクラスに2~3人、1学年4クラスありましたから8人~12人はいました。5歳下の弟の学年も同じくらいいたそうです。

当時、年に2回くらい、町の映画館で開かれる学校の映画鑑賞会のとき、新潟港から出航する北朝鮮帰還船のニュース映画を見ました。そして、北朝鮮は「地上の楽園」であるというようなことを聞いた覚えがあります。

私が中学在籍中は小学生のときの同学年の人が帰還したという話は聞きませんでしたが、何年か経った後のクラス会で話題になり、何人か北朝鮮に帰ったと聞き,知っている同級生が2名ほどいました。また、5月26日、弟に確認したところ、弟の小学時代のクラスの2人の家族も帰ったと聞きました。

そのとき、話題になったのは、1960年代は日本全体がまだ、経済的に余裕がない時代で、町に住む朝鮮の人の中で、ラーメン屋、焼肉屋クリーニング屋、土建業など商売をやり、経済的に安定している家族は残ったそうですが、大部分の苦しい家庭や故郷にどうしても帰りたい家庭は「北朝鮮は地上の楽園である」と聞いて、それを信じ、希望を託して、帰って行ったということでした。

その後、北朝鮮の現状を聞くたびに、思い出し、あの時、北朝鮮に帰った人はどうなっているのだろうと気の毒に思っています。日本政府にも何とかして欲しいと願うばかりです。

【追記】2006.5.29
後日、小学・中学の同級生で埼玉県ふじみ市に住む医者のMFさんと電話で話したところ、彼は北朝鮮に帰った人を2人知っており、1人は同じクラスだったので新潟まで見送り行ったそうです。