1日接種回数低下で未接種者の感染と接種後の免疫低下による再感染など不安の種は尽きまじ

f:id:yaseta:20211115063002j:plain

図1.新型コロナウイルス接種回数&接種率

f:id:yaseta:20211115063659j:plain

表1.年齢別接種率

f:id:yaseta:20211115064315j:plain

表2.国内コロナワクチン接種推移表

f:id:yaseta:20211115064844j:plain

表3.各国コロナワクチン接種表

日本のコロナ感染激減の原因としてコロナウイルスの自滅説が有力ですがこの現象は日本だけ起こっているだけにイギリスで事実として、韓国では憶測で伝えています。

yaseta.hateblo.jp

一方、イギリス、ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、オランダなどワクチン接種率が140~150%ですが接種後、6~8カ月以上経過して免疫低下した人が大量に出て、ブレークスルー感染が起ったため増加しています。現在、3回目のワクチン接種の実施や対策を講じています。

オランダは2週間のロックダウンを実施、反対するデモ隊とトラブルを起こしています。

 

日本の感染激減はたまたま幸運に恵まれたものなので安心できません。

表1 年齢別接種率

表1に示すように、ワクチン接種1回目・2回完了者は30歳代75%・69%、20代73%・66%、12歳~19歳は72%・61%で30歳以下の人でワクチン接種未接種の人が30%~40%おります。

 

図1 新型コロナウイルス接種回数&接種率(2021.2.17~11.11)

表2 国内コロナワクチン接種回数表

 

図1,表2に示すように、直近2週間の平均1日ワクチン接種回数は7月上旬~9月上旬まで100万回以上でしたが9月上旬から接種回数が減少しており、10月末から11月上旬までの平均1日接種回数が33万回と減少しています。

 

日本は6~8カ月以上経過し免疫低下した人が12月頃から大幅に増えてきますので高齢者の免疫低下でブレ―クスルー感染リスクと1日ワクチン接種回数の低下でワクチン接種完了者も低下して、多くの未接種が放置されることになり感染リスクが増加します。このリスクを抱えた状態で第6波が襲来したならば日本もヨーロッパのように感染が増加するのではと不安がでてきました。

 

政府は3回目のワクチンを実施すると発表していますが1日当たりのワクチン接種回数増加対策も必要です。政府、自治体、学校、報道機関は若者中心に情報提供とともにワクチン接種の呼びかけを強化する必要だと思います。

f:id:yaseta:20211115070019j:plain

感染・入院・重症・死亡・ワクチン接種状況

f:id:yaseta:20211115065406j:plain

国内累積感染者数推移

f:id:yaseta:20211115065532j:plain

国内累積死亡者数推移

f:id:yaseta:20211115065740j:plain

国内1日感染者数推移

f:id:yaseta:20211115065624j:plain

国内1日死亡者数推移

 

長崎平戸生まれで抗清復明の鄭成功による1662年の台湾統治と漢欧日が南シナ海で演じた貿易戦争

f:id:yaseta:20211123071607j:plain

京城攻略前の鄭成功の決意表明

f:id:yaseta:20211123205631j:plain

明の末期と清の興起

習近平総書記の夢は「中華民族の偉大な復興」であり、そのモデルは漢民族の王朝「明の建国」と拡大期に違いないとかってに推測しました。

yaseta.hateblo.jp

しかし、習近平さんの夢を実行する上で参考になるモデルは「明の建国」と朝貢航路を開拓した「鄭和の大航海」よりも、オランダ東インド会社を追い出し、台湾に初めて漢人政権を打ち立てた日本生まれの鄭成功(ていせいこう)とその父鄭芝龍(ていしりゅう)などの漢人海商集団、東インド会社、そして日本人商人との南シナ海を舞台に演じた貿易利権争いの方が現在の状況に似ており、参考になると思いました。

 

鄭成功は1624年、江戸時代初期(中国の明の時代)長崎の平戸で中国人海商 鄭芝龍(ていしりゅう)を父と日本人田川マツの間に生まれ、幼名は福松(中国名は鄭森”ていしん”)と言いました。

 

 

【明の滅亡と清の興起】

1500年後半になると、明王室の贅沢三昧で浪費が続き、さらに、モンゴル族のボハイの反乱、朝鮮の壬辰倭乱への支援、重慶の楊応龍(ようおうりゅう)の反乱など大規模な反乱鎮圧に莫大な戦費を消費、財政が逼迫してきました。

1616年中国東北部女真族=(韃靼(だったん))の「ヌルハチ(後の清の太祖)」がハンに即位し、後金を建国しました。

 

1618年、撫順近くのサルフの戦いで明軍を撃破、1621年遼陽、瀋陽を占領、瀋陽に遷都しましたが1626年急死、後継者のホンタイジ(清の太宗)は1636年女真族満州族に改め、ハンを兼ねて皇帝に即位、国号を「清」に改称しました。

 

軍備を整え、勢い付いた清軍は1641年明国征服を目指し進軍しますが明の防衛線「万里の長城」の最東端にある北京侵入口で難攻不落の「山海関」で足止めを食らいます。

1627、1628年明の陝西省(せんせいしょう、省都:西安=長安)北部に干ばつによる大飢饉が起こり、これをきっかけに陝西省延安で王嘉胤(おうかいん)が反乱を起こします。

 

1636年反乱軍を受け継いだ李自成は1644年西安(唐時代の首都長安)を占領して西京と改め、大順国を建て自らを順公と称し、北京に進撃、1644年3月北京城を攻略し、崇禎帝(すうていてい)を自殺に追い込み、明を滅亡させました。

明の滅亡を知った山海関の守備の将軍「呉三桂(ごさんけい)」は清軍と手を組みます。清軍は難なく山海関を越え、明に無血入場し、呉三桂とともに李自成軍を破り、北京を占領し、大順政権を崩壊させました。

李自成は逃亡しますが1645年6月湖北省の山の中で農民に殺されました。

 

明王朝皇族の南明政権の滅亡】

1644年の明の滅亡後、皇族を擁立する南明政権が樹立しましたが。1645年清は南明政権掃討作戦を行います。1645年南京を拠点とする副王政権を壊滅、浙江(せっこう)の魯王(ろおう)政権壊滅、続いて鄭成功の父 鄭子龍が1644年に擁立した福建の唐王(とうおう)を1645年壊滅、1661年、最後に広東の桂王(けいおう)を追い詰め・殺害し、南明政権を滅亡させました。

 

一方、1646年父 鄭子龍は清に降伏しますが遊牧民族の清軍に対し武装船団を持ち海戦など極地戦に強い鄭成功は徹底抗戦を続けます。

 

【16~17世紀の南シナ海海域の利権争い】

安平港(現在の台南市)の北西に位置する澎湖(ほうこ)諸島は水産資源が豊富で漢人が住んでいました。

 

しかし、明王朝初期(1400前半)、陸のシルクロード(複数の交易路=帯)と鄭和が開拓した海のシルクロード(航路)の明朝版一帯一路で形成された朝貢関係にある冊封(さくほう)体制を維持し、中華民族中心の東アジアにおける国際秩序を守るため、また反明勢力の拠点防止や倭寇を防ぐため、明政権は「海禁政策(海外貿易制限)」を実施、澎湖諸島を放棄、漢人住民を福建へ移住させました。

 

すると、沿岸の住民は漁や交易、そして海賊が横行しました。やがて日本と中国東南沿海地域との間の密貿易の拠点なりました。

 

1548年から東南沿海(浙江、福建、広東、台湾一帯の海域)での倭寇討伐が積極的になり、1567年頃から海禁政策(海外貿易制限)が緩和され、商人たちの東南アジアでの活動を許可しました。

 

1600年イギリスが東インド会社を設立し東南アジアに進出すると、オランダも1602年連合東インド会社を開設し、1619年オランダ東インド会社バタビア(現在のインドネシアジャカルタ)に総督府を置き、東アジアとの貿易に乗り出しました。

 

1588年豊臣秀吉が海賊船停止令や倭寇禁止令や1592年朱印船制度を発令すると日本商人は南海貿易にのりだすようになりました。1603年江戸幕府が開かれますが朱印船貿易は続きます。1609年オランダが平戸と貿易が始まりますが、1616年から段階的に鎖国政策が実施されていきます。

1690年には南シナ海の島々の日本人街の邦人は消滅していきました。

1700年には清国船は8隻、オランダ船は5隻のみに限定されました。

 

1625年貿易船を襲い、また、中国沿岸を荒しまわる海賊の顔思齊の跡を継いで頭領になった鄭芝龍(鄭成功の父)は澎湖島や台湾南部一帯に拠点を作り、ライバルの海賊船を海戦で滅ぼし、あるいは貿易船を襲い略奪や密貿易を行い、一大海商集団を築いていきました。

 

やがて日本、中国、東南アジアを結ぶ南海貿易のトップの座を占めるようになる1628年、財政難に陥っていた明王朝は苦肉の策として鄭子龍を福州の都督(長官)の地位を与え、中国沿海の海賊の取り締まりを命じました。

鄭子龍海商集団は活動の拠点を福建の厦門金門島に移し、武装取締船隊は中国沿岸海域や台湾海峡海域の海賊を取締りながら海商集団は貿易を続けていきました。

 

台湾海峡の台湾その中の澎湖諸島は中国、日本との貿易ルートの要所であるため、オランダは澎湖島を1604,1622年占領しますが明の勧告を受け、いずれも撤退します。そして、1624年オランダは大員(タイオワン、現在の台南市安平)にゼーランディア城を築き、台湾統治と対外貿易を開始しました。

 

鄭成功の反清復明抵抗運動】

明政権の都督(長官)鄭芝龍は1644年明が滅亡すると福州に明の皇族の唐王を擁立し南明政権を樹立しました。

鄭成功は7歳で平戸から明に渡り、科挙を目指し1644年南京の国士監太学に入学しており、既に22歳になっていました。

1645年鄭成功は唐王から皇帝の姓(国姓)である「朱」と名「成功」を賜りますが畏れ多いと朱をなのらず元の姓を使い鄭成功となのるようにしましました。すると鄭成功は国の姓を賜ったことで一族や民衆から尊称「爺」を付けて国姓爺(こくせんや)と呼ばれるようになりました。

(1715年近松門左衛門は当時、姓は性を使われていることから鄭成功をモデルにした浄瑠璃を「国姓爺合戦」でなく「国性爺合戦」としている。)

1645年南明政権が滅亡し、1646年父鄭芝龍は清に降伏しますが鄭成功は父と袂を分かち、抗清復明の旗印を掲げ、明の復興ため清に立ち向かいます。

1659年7月清の南京城を陥落寸前まで追い詰めますが清の奇襲作戦に破れてしまいました。

 

【鄭政権敗北後、台湾は清の隷属下へ】

1661年根拠地を厦門(アモイ)から台湾に移動することを決意、当時、オランダ人が占領していた台湾のゼ―ランディア城を海と陸からの包囲する兵糧攻めで勝利し、台湾を解放し、鄭氏政権を樹立しました。南部・中部を開発・農地化、所有する大型船団を使い日本・東南アジア諸国と交易を図り、その収入で鄭氏政権を支えました。

 

成功死後の1683年澎湖島(ほうことう)沖の海戦で清軍に大敗し、台湾の鄭氏政権は滅亡し、1644年の清王朝発足から19年経ち、ついに、1683年清の中国征服は完了しました。

1684年、台湾は清の直轄統治の台湾府となり、福建省の隷属下に置かれました。

 

50数年後の江戸時代中期の1715年、近松門左衛門は日本人の母を持つ鄭成功を日本の侍「和藤内」に替え、明の再興のため力を尽くした史実を大幅に脚色して作ったのが浄瑠璃国性爺合戦」だったのです。

ちなみに鄭成功の日本版である和藤内は和(日本)でも唐(中国)でもない(無い、内)という洒落を効かせ、近松門左衛門が付けた名前でした。

 

それから185年後の1900年(明治32年)教育者  杉浦重剛は敬愛する古人として評論文を書いています。yaseta.hateblo.jp

【中国の歴史の参考】

1.「中国共産党100年式典演説全文」中華人民共和駐日本大使館HP,2021.7.2

2.「明治名家 古人評論」 勢多 章之 ,博文館,1899.12.16(明治32年)

3.「日本の文学 古典編 41 国姓爺合戦・曽根崎心中」市古 貞次,ほるぷ出版, 1987

4.「すぐわかる中国の歴史」小田切 英,宇津木 章,(株)翔文社,2003.5.1

5.「教養の中国史」津田資久,井ノ口哲也,ミネルヴァ書房,2018.8.2

6.「一冊でわかる中国史岡本隆司,(株)河出書房新社,2020.8.20

7.「中国の歴史を知るための60章」並木頼壽,杉山文彦,(株)明石書店,2011.131

8.「詳説台湾の歴史 台湾高校歴史教科書」薛 化元,訳 永山英樹,雄山閣,2020.2

9.「中国歴史地図」朴漢済,訳 杉山文彦,(株)明石書店,2011.1.31

10.「鄭和の南海大遠征」宮崎 正勝,中央公論社,1997.7

11.「物語中国の歴史」寺田 隆信,中央公論社,1997.4

12.「世界歴史体系 中国史 4 」松丸 道雄,山川出版社,1999.6

13.「鄭成功とは?」長崎県平戸市,鄭成功記念館HP

14.「人物 中国の歴史9 激動の近代中国」尾崎秀樹,集英社,1982.2.20

日本の第5波感染急減の原因はコロナウイルスが自滅したから?

f:id:yaseta:20211104120247j:plain

各国コロナ感染者&ワクチン接種推移表各国

f:id:yaseta:20211104083142j:plain

各国コロナ死亡者&ワクチン接種推移表

日本感染者は8月後半でピークを迎え、9月から急減し、10月後半には韓国の半月平均1日感染者数1583人に対し日本は584人で韓国の3分の1近くまで激減しました。

11月に入り、1日感染者数は韓国が1000~1500人台を続けており、日本は100~300人で減少傾向にあります。

yaseta.hateblo.jp

新型コロナウイルスの急激な感染者減少の原因がわからないため、K防疫を自負してきた韓国の時事評論家に日本政府が改ざんしたとまで嘲弄されましたが、2021年11月1日テレビ朝日羽鳥慎一モーニングショーで劇的減少の原因かもしれないというある研究結果の説明がありました。

 

国立遺伝研究所と新潟大学の研究グループの研究結果は ―-日本の急激な感染者減少はコロナウイルスデルタ株が変異を重ねているうちに「自滅」した。―-のが原因と思われると発表しました。

 

一般にウイルスは生きるため増殖(感染拡大)していきますがその過程でウイルスの遺伝子に変異を起こし感染力が強いウイルスや弱いウイルスなど何種類ものウイルスが発生します。

 

そして増殖力が強大なデルタ株のような変異ウイルスがウイルス全体に広がると8月に起こったようなパンデミック(感染大流行)を引き起こします。

 

研究グループによるとウイルスは急激に増殖を拡大し続けていると時々、間違い起こすそうです。すなわち間違った遺伝子ができます。しかし、通常であれば、間違った遺伝子を修復する酵素が働き正常のウイルスに戻り増殖を続けます。

【NSP14】:修復タンパク質と呼ばれる間違い遺伝子を修復する酵素

第1波から第4波のコロナ感染拡大であれば間違い遺伝子を持つコロナウイルスをNPS14で修復し、感染(増殖)を拡大していきました。

 

人間にはいろいろな酵素たんぱく質の一種)があるもので修復タンパク質に変化を促すAPOBECという酵素があり、東アジアやオセアニアにこの酵素が特に活発な人が多いそうです。

【APOBEC】:修復タンパク質「NSP14」が持つ他の遺伝子を修復する機能を不能にする「変化NPS14」に変える酵素

 

第5波では強力な感染力を持つコロナウイルスに変異したデルタ株が8月にパンデミックを引き起こしましたがその頃からデルタ株が増殖の際に発生した間違った遺伝子を修復するNSP14にAPOBECが作用し、修復できなくなる「変化NPS14」が発生しました。

 

そして、間違った遺伝子を持つコロナウイルスの遺伝子に「変化NPS14」が作用しても修復できず、増殖できなくなり、自滅し、拡大して行くと共に、ワクチン接種率も高まり、それが逆パンダミックを引き起こし、見事な尖形を描いて減少した原因だったようです。

 

欧米人はAPOBECが少なく、また、ワクチン接種後8カ月以上経過している人が多く免疫が下がっているため、ブレークスルー感染が発生して、感染が増加しています。しかし、欧米では重症化、死亡のリスクの高い人などに3回目のワクチン接種を開始しており、規制することなく通常の社会活動を続けています。

 

日本もワクチン接種後8カ月以上経過する人も出てきますので政府は新たに発生する変異ウイルスの感染に備え、12月から3回目のワクチン接種を始めるようです。政府は基本的には全国民を対象に実施することや医療従事者や病床など受け入れ態勢の確保など検討・対策中と伝えていました。

f:id:yaseta:20211104083255j:plain

日本スイス等コロナ感染者数推移グラフ

f:id:yaseta:20211104083713j:plain

日本スイス等コロナ死亡者数推移グラフ

f:id:yaseta:20211104083816j:plain

英仏独コロナ感染者数推移グラフ

f:id:yaseta:20211104083916j:plain

英仏独等コロナ死亡者数グラフ

f:id:yaseta:20211104084042j:plain

米印露コロナ感染者推移グラフ

f:id:yaseta:20211104084144j:plain

米印露コロナ死亡者推移グラフ

f:id:yaseta:20211104084251j:plain

米印露コロナ累積感染者数推移グラフ

習近平総書記、目指すは国際秩序構築そのモデルは明の建国と鄭和の大航海

f:id:yaseta:20211106133512j:plain

鄭和の大航海

f:id:yaseta:20211031181626j:plain

中国国家プロジェクト「一帯一路事業」

f:id:yaseta:20211117211538j:plain

明王朝の興起と末期の時代

習近平総書記は2021年7月2日の「中国共産党100年式典演説」の前半で  --- 

中国共産党の1世紀にわたる奮闘した一切の奮闘、一切の犠牲、一切の創造はまとめれば、中華民族の偉大な復興となる。

5000年続いた偉大な中華民族は1840年のアヘン戦争後の国家が辱められ、人民が苦しめられ、文明が失われて未曾有の災難に見舞われた。そのときから、中華民族の偉大な復興が中国人民の最も偉大な夢となった。

  ---  そして、演説の最後で

新しい時代の中国の若者は中華民族の偉大な復興の実現を自らの任務とし、時代に背かず、青春に背かず、党と人民の切なる期待に背かないようにしなければならない。

  ---  と「中華民族の偉大な復興」を22回も繰り返し、世界に向かって主張しました。

 

この演説全文を読み、中国共産党すなわち習近平総書記の夢は「中華民族の偉大な復興を2049年の中華人民共和国創立100年までに実現すること」であることがわかりました。

yaseta.hateblo.jp

そして、具体的な目標は2018年の外交方針であり、これまで周辺国や欧米とトラブルを起こしながらも強引に海外進出してきた理由も見えてきました。

f:id:yaseta:20211031070508j:plain

習近平政権の外交方針(2018年)

私がまとめた演説の超概略は中国共産党の業績と今後の推進項目を抜き出したもので習近平総書記の夢の背景が抜けていましたので、中華民族の偉大な復興のモデルになったと思われる中国歴史を調べてみました。

 

【モンゴル民族による中華民族の支配 】

1260年フビライは汗に即位し、国号を元に変え、モンゴル国内の問題処理を終えた後、1268年南宋攻略を再開しました。

1273年2月フビライ汗率いるモンゴル軍によって南宋防衛の要所襄陽(じょうよう)が陥落し、1275年2月家州の戦いにも南宋軍は大敗北し、南宋崩壊の危機が迫りました。

この国難に立ち上がったのが21歳で科挙の首席合格の経歴を持つ文武両道の若き英雄文天祥でした。文天祥は1275年4月吉州で義勇軍を組織し反抗を開始しました。

しかし、連戦連勝のモンゴル軍は長江を下り首都臨安(現在の浙江省杭州市)に迫りました。

 

1276年1月南宋はモンゴル軍に講和を申し入れますが拒絶され、首都臨安は陥落しました。

1276年2月文天祥は臨安でモンゴル軍につかまりますが揚州に送られる途中脱走し、反抗を続けます。

しかし、1278年12月潮州で再びつかまります。文天祥南宋への忠義と優れた才能を惜しんだフビライ汗は元に仕えるよう促しましたが毅然として拒否し、処刑されました。

そして、1279年崖の戦いで南宋は敗れ、9歳の9代南宋皇帝祥興帝 (しょうこうてい)が入水自殺し、1500年以上続く漢民族の朝廷南宋は滅亡しました。

 

漢民族の復興 *** 中華民族の偉大な復興のモデル *** 】

異民族のモンゴル族王朝「元」に漢民族支配下に置かれましたが89年後、農民上がりの朱元璋中華帝国の再建をスローガンに掲げ、反乱を起こし、モンゴル族を首都「大都(現在の北京)」から北方へ追いやります。

1368年集慶を占領し、応天府(後の南京)と改称、首都とする「明」を建国、皇帝洪武帝となり、異民族から覇権を取返し、漢民族の朝廷を再興しました。(南京:長江の出口上海から約300km上流の都市)

1398年の洪武帝朱元璋)の死後、2代皇帝建文帝(朱元璋の孫)と皇族間の跡目争い「靖難(せいなん)の変」で勝利した北平(北京)の燕王(朱元璋の四男)は1402年3代皇帝永楽帝即位しました。

 

鄭和の大航海 *** 一帯一路事業の一路のモデル *** 】

永楽帝は5回にわたり自ら軍を率いて万里の長城を越え、モンゴルを攻撃するなど対外遠征に積極的でした。中でも永楽帝色目人の宦官鄭和(ていわ)に命じ、1405~1433年7回にわたり大航海し、海のシルクロード朝貢航路)を開拓しました。

色目人:モンゴル人を除いた遊牧民西アジアイスラム人、鄭和は元時代雲南省に移住したイスラム人の子孫)

1405年に始められた鄭和の大航海(第7次航海は孫の宣徳帝時代)はバスコ・ダ・ガマがインド航路を発見した1498年より93年も早くインド洋、ペルシャ湾アラビア海そしてアフリカ東海岸に至る大偉業でした。

 

バスコ・ダ・ガマのサン・ガブリエル号は全長30m、幅5mだったのに対し、鄭和の船は全長130mと幅56mと巨大なものだったと言われています。

船団はこの巨大船数隻含む62隻の船と乗組員(将兵含む)2万7800人で構成され、医師や暦官まで同行し、蘇州太倉の劉家港(りゅうかこう)(長江の出口上海市北側の江蘇省蘇州市太倉市)を出発し、福州長楽の五虎門、泉州、チャンバ、ジャワ、スマトラマラッカ海峡を通過して、インド西岸のカリカットに寄港しました。

第3次航海までの最終寄港地は元の時代から進出しており、華僑が多く住むカリカットでした。

カリカットは綿布生産の中心地でこの都市名カリカットから綿布をキャラコと呼ぶようになったと言われています。

融和は既にカリカットの王に永楽帝詔勅と金印を与え明の冊封に組み込んでいました。

第4次以降の航海はさらにインド洋、アラビア海ペルシャ湾のチムール帝国のホルムズ、イエメンのアデン、さらにアフリカのモガディシオからマリンディまで至り、各地で金、銀、絹など与えて朝貢を促しました。

融和の遠征で明は30カ国余りから朝貢を受け、宝物や香料など大量に獲得しました。

 

アフリカ東海岸には古くから象牙、金など取引するムスリム商人が居住して、モガデシオ、ブラワト、マリンディなど小都市と港が作られていました。マリンディの支配者が派遣した使節団は艦隊と一緒に明帝国を訪れ、キリンを貢ぎ物として永楽帝に贈りました。

中国人は聖人が治める太平の時代に麒麟が現れると信じていました。

キリンの朝貢を受けた永楽帝は農民上がりの父(太祖洪武帝)からくるコンプレックスが消えるとともに威信が付き、政治的基盤が固まったと言われています。

 

鄭和は1433年、第7次航海の途中にカリカットで病死したと言われています。1498年バスコ・ダ・ガマが希望峰を回って最終目的地カリカットに着いた時、鄭和は既に65年前に亡くなっていたのです。

 

鄭和の大航海は航海の規模、日程、各国家の交易状況など多くの記録を残しました。

第7次航海の航路図を描いた「鄭和航海図」には南京からアフリカ東海岸までの地名、港、星座、暗礁、航路など航海に欠かせない詳細事項を正確に記録されていました。

融和の大航海はその距離、帰還、船の大きさと数量、積載量、人員、船団組織、航海術など15世紀の世界航海史上の最高峰でありました。

 

もちろん一帯一路事業の一帯のモデルは、はるか漢の時代西暦100年頃から始まり、明の時代も続く、中東、アフリカ、ヨーロッパと中国各地を繋ぐ交易の絹の道(シルクロード)です。

 

習近平の夢は2049年の建国100周年までに世界秩序を変えること?。】

中国共産党すなわち習近平総書記が言いたかったことは ---

 

中国5000年の歴史の中で元や清の建国、アヘン戦争日中戦争朝鮮戦争の事件により漢民族は、異民族に支配、介入、内政干渉などの屈辱を受けたが漢民族は異民族を追い返し、名誉を取り戻した。

しかし、1921年の中国共産党創立以来から続いている屈辱は欧米日本などの資本主義国の主導による国際秩序に支配されていることであり、戦いは現在も続いている。

中国共産党創立から100年かけてようやく、政治力、軍備力、経済力が欧米に並ぶことができ、未来への展望が見えてきた。

これから2049年の建国100周年までに欧米を追い越し、世界秩序を変える(世界覇権掌握)ため力強く推進しなければならない。

これが成就できたときこそ、中国人民が抱き続けている中華民族の偉大な復興の実現である。

 

--- と素人の私は推察しました。

 

【中国の歴史の参考】

1.「中国共産党100年式典演説全文」、中華人民共和駐日本大使館HP、2021.7.2

2.「日本の文学 古典編 41 国姓爺合・曽根崎心中」、市古 貞次、ほるぷ出版、 1987

3.「すぐわかる中国の歴史」、小田切 英、宇津木 章、(株)翔文社、2003.5.1

4.「教養の中国史」、津田資久、井ノ口哲也、ミネルヴァ書房、2018.8.20

5.「一冊でわかる中国史岡本隆司、(株)河出書房新社、2020.8.20

6.「中国の歴史を知るための60章」、並木頼壽、杉山文彦、(株)明石書店、2011.1.31

7.「詳説台湾の歴史 台湾高校歴史教科書」、薛 化元、訳 永山英樹雄山閣、2020.2

8.「中国歴史地図」、朴漢済、訳 杉山文彦、(株)明石書店、2011.1.31

9.「鄭和の南海大遠征」、宮崎 正勝、中央公論社、1997.7

10.「物語中国の歴史」、寺田 隆信、中央公論社、1997.4

11.「世界歴史体系 中国史 4 」、松丸 道雄、山川出版社、1999.6

 

第5波コロナ感染は合計ワクチン接種率100%を境に尖形を描いて抑制圏へ(2021年10月15日時点)

f:id:yaseta:20211017222652j:plain

図1日本東京1日感染者数推移グラフ

f:id:yaseta:20211017222853j:plain

図2感染入院重症死亡ワクチン接種推移グラフ

f:id:yaseta:20211017223120j:plain

図3ワクチン接種推移グラフ

f:id:yaseta:20211018051502j:plain

表1ワクチン接種率ランキング表

f:id:yaseta:20211017223346j:plain

図4日本東京1日死亡者推移グラフ

図1、図2等のグラフに示すとおり、8月25日国内感染者がピークに達し、減少に転じると、感染ピークから5日遅れて入院・自宅療養者も減少に転じ、重症者も7日遅れて減少に転じました。

感染者、入院・自宅療養者、重症者、死亡者の概略の経緯は次のようになりました。

 

国内1日感染者(直近7日間の平均値)

8月25日:23,100人(国内ワクチン接種率:1回目56%、2回目45%、合計101%)ピーク

9月18日:5,700人(国内ワクチン接種率:1回目67%、2回目55%、合計122%)

10月14日:639人(国内ワクチン接種率:1回目75%、2回目66%、合計141%)

 

東京の1日感染者(直近7日間の平均値)

8月18日:4,770人(国内ワクチン接種率:1回目52%、2回目42%、合計94% )ピーク

9月18日:890人(国内ワクチン接種率:1回目67%、2回目55%、合計122%)

10月14日:77人(国内ワクチン接種率:1回目75%、2回目66%、合計141%)

 

大阪の1日感染者(直近7日間の平均値)

9月1日:2,520人(国内ワクチン接種率:1回目59%、2回目48%、合計107% )ピーク

9月18日:850人(国内ワクチン接種率:1回目67%、2回目55%、合計122%)

10月14日:112人(国内ワクチン接種率:1回目75%、2回目66%、合計141%)

 

国内の入院・自宅療養者

8月30日:231,770人(国内ワクチン接種率:1回目58%、2回目47%、合計106% )ピーク

9月18日:84,010人(国内ワクチン接種率:1回目67%、2回目55%、合計122%)

10月14日:5,156人(国内ワクチン接種率:1回目75%、2回目66%、合計141%)

 

国内の重症者

9月3日:2,220人(国内ワクチン接種率:1回目60%、2回目49%、合計109%)ピーク

9月18日:1,560人(国内ワクチン接種率:1回目67%、2回目55%、合計122%)

10月14日:357人(国内ワクチン接種率:1回目75%、2回目66%、合計141%)

 

国内の死亡者(直近7日間の平均値)

9月13日:65人(国内ワクチン接種率:1回目65%、2回目53%、合計118%)ピーク

9月28日:40人(国内ワクチン接種率:1回目71%、2回目60%、合計131%)

10月14日:28人(国内ワクチン接種率:1回目75%、2回目66%、合計141%)

 

ワクチン接種率が1回目56%、2回目45%、合計101%になった8月25日をピークにして感染が減少に転じ、10月14日時点でワクチン接種率は1回目75%、2回目66%、合計141%で感染者は357人と400人を切りました。

 

日本は1カ月半で23000人から400人と50分の1以下まで急減したのに対し、韓国の感染者は9月25日に3000人と増加し、その後、1000人台が続いていることから日本政府が公表している感染者数は改ざんしていると左派系の時事評論家がラジオ番組で言ったそうだが(2021年10月7日産経新聞)何の根拠もなしに韓国民や外国の日本に向かってよく言えるとあきれかえりました。

おそらく、見事な尖形を描いて減少する日本の感染実状に嫉妬(しっと)していると思うようにしました。

 

日本では飲食店やイベントの入場や宿泊を伴う旅行の際、ワクチン接種証明書やPCR検査陰性証明(3日以内?)を提示することにより大幅に制限を緩和するなど、社会活動が活発化してきました。

 

昨年9月から10月中半まで感染者が400人~500人で11月から感染増加が続き拡大し、1月初旬がピークとなった第3波がありました。今回、第5波のコロナ感染はようやく抑制できそうですが、これから冬に向かい気温が下がり、乾燥してきますと昨年と同じように再び感染増加が始まり、第6波の感染が懸念されます。

 

政府はワクチン接種後、免疫が減少し、6カ月以上経過すると免疫効果がなくなり、ブレークスルー感染の恐れがあるとして高齢者、基礎疾患者、医療関係者に対し年内から3回目のワクチン接種の準備やコロナ治療薬や病床増加などの対策を講じていると伝えています。

 

現在、日本のワクチン接種は欧米より2カ月遅れて開始しましたが、10月4日現在、欧州主要国と同レベルに達し、韓国、アメリカを追い抜いています。(表1)

さらに、接種率が進むことで感染が抑えられ、感染しても重症化、死亡のリスクもこれまでより低くなるので、マスクや手洗いなど気をつけることで社会活動が活発になり経済が上向くことを期待したいと思います。

f:id:yaseta:20211017223714j:plain

図5日本東京累積感染者推移グラフ

f:id:yaseta:20211017223800j:plain

図6日本東京累積死亡者推移グラフ

 

2021年10月1日時点の各国コロナ感染・死亡状況

f:id:yaseta:20211004173706j:plain

2021年10月1日時点のコロナ感染&死亡状況表

f:id:yaseta:20211004173938j:plain

2021年10月1日時点のコロナ感染とワクチン接種率推移表

2021年10月1日における各国のコロナ感染者総数とその死亡者総数そしてワクチン接種率を表にしてみました。

死亡者総数のワースト5は2021年9月3日時点の①.アメリカ ②.ブラジル ③.インド ④.メキシコ ⑤.ペルーで大きく変わらないと思われるので情報が少ないメキシコとペルーを除き、欧米、アジアの国について上記の表1,表2にまとめました。

yaseta.hateblo.jp

f:id:yaseta:20211004174435j:plain

日本スウェーデン等コロナ1日死亡者数グラフ

f:id:yaseta:20211004174629j:plain

米印露等コロナ1日死亡者数グラフ

f:id:yaseta:20211004174750j:plain

英仏独等コロナ1日死亡者数グラフ

f:id:yaseta:20211004174932j:plain

日本スウェーデン等コロナ1日感染者数グラフ

f:id:yaseta:20211004175017j:plain

米印露等コロナ1日感染者数グラフ

f:id:yaseta:20211004175053j:plain

英仏独等コロナ1日感染者数グラフ

f:id:yaseta:20211004175130j:plain

米印露等コロナ累積感染者数グラフ

 

2021年9月16日時点の感染・入院・療養・重症・死亡・ワクチン接種状況

f:id:yaseta:20210920190110j:plain

国内コロナ感染・入院・療養・重症・死亡・ワクチン接種率推移

f:id:yaseta:20210920190350j:plain

国内コロナ1日感染者数推移

f:id:yaseta:20210921100540j:plain

国内ワクチン接種回数&接種率推移

国内の1日感染者は8月25日(直近7日間の平均値)の23,100人(ワクチン接種率:1回目56%、2回目45%、合計101%)をピークに減少に転じて9月18日には5,700人まで減少しています。

 

東京の1日感染者は8月19日(直近7日間の平均値)の4,770人(ワクチン接種率:1回目52%、2回目42%、合計94%)をピークに減少に転じて9月18日には890人まで減少しています。

 

大阪の1日感染者は9月1日(直近7日間の平均値)の2,520人(ワクチン接種率:1回目59%、2回目48%、合計107%)をピークに減少に転じて9月18日には850人まで減少しています。

 

国内の入院・自宅療養者は8月30日の231,770人(ワクチン接種率:1回目58%、2回目47%、合計106%)をピークに減少に転じて9月18日には84,010人まで減少しています。

国内の重症者は9月3日の2,220人(ワクチン接種率:1回目60%、2回目49%、合計109%)をピークと減少に転じて9月18日には1,560人まで減少しています。

 

地域によって、減少に転じる期日は違いますがすべての地域は8月末から9月初めにかけ感染者も入院・自宅療養者も重症者も減少していると思われます。

 

しかし、まだ病床に余裕なく、自宅療養者が容態悪化してもすべて受け入れできない状況にあるので死亡者の確実な減少はもう少し先になりそうです。

病床に余裕ができ、入院必要な自宅療養者がすべて受け入れできるためには、感染者がさらに減少していく必要があります。

 

デルタ株に感染した人のほとんどはワクチン未接種の人と報道されています。

ワクチン接種率が1回目52%、2回目42%、合計94%になった頃から感染が減少に転じていることから、おおよそ人口の半分以上の人がワクチン接種することにより、感染者が減少するといえます。

 

具体的にわかりませんが、感染者・重症者・病床空き率などの経済活動再開条件を満たし、政府が経済活動開始を宣言する時期のワクチン接種率の値がどれくらいになるのか見極めたいと思います。

f:id:yaseta:20210920190754j:plain

国内コロナ1日死亡者数推移

f:id:yaseta:20210920190850j:plain

国内累積感染者数推移

f:id:yaseta:20210920190921j:plain

コロナ累積死亡者数推移