「左兵衛佐(さひょうえのすけ)吉田兼好」は朝廷を早期退職したがそれなりに退職金と年金をもらいました。

朝廷についての語意調査表

鎌倉時代の朝廷と収入】

平安時代中期の朝廷は、首都平安京に国家機関の官庁街「大内裏」とその中心の皇居「内裏」を持ち、国を統治・運営していました。

しかし、鎌倉時代(1192年頃)の朝廷は、武士から政治権力を奪われ、「大内裏」の中の皇居「内裏」は残りましたが、「大宝律令(701年)」や藤原一族繁栄の礎石を築いた藤原不比等(ふひと)編纂の「養老律令(718年)」に基づいて改訂した律令制度や国家機関は、遠く離れた鎌倉の地に移され、大内裏の官庁街の庁舎は空き家となってしまいました。

大内裏と内裏

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鎌倉幕府律令に基づいた二官八省制など機能・組織をそのまま引き継いだのではなく、武士の制度に合わせて改変し、最高機関の執権・連署評定衆からなる「評定会議」、行政の実務を行う政所や軍事・警察を行う「侍所」、訴訟や裁判を行う「問注所」、など幕府が管轄する「場所」に移し換えたのです。

鎌倉時代の概略年表

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二官八省制の組織図

 

四部官制による官職名表

その結果、朝廷は、国の年貢など巨額な財源を失い、平安時代後期の4分の1または5分の1まで激減したといわれています。

 

残された朝廷の収入源

1.朝廷が所有していた各地の荘園からの年貢

2.寺社の保護の見返りとしての寄付

3.朝廷の権威の維持と公家社会の安定策として幕府からの定期的援助

4.朝廷への忠誠心による貴族・武士からの献金など

 

空き家となった大内裏の庁舎だった建物の一部は解体されて他の場所で再利用されましたが多くの建物は放置されて自然消滅したといわれています。

 

朝廷は政治権力を失いましたが、武士政権が確立した後も、天皇は国家の象徴として崇められ、朝廷は権威の源泉として存在し、日本の政治、文化、宗教において重要な役割を果たし続けました。

 

鎌倉時代、朝廷が政権を失った後も、朝廷は外交や律令に基づく官位・官職制度(官僚制度)などを保持しており、殿上人(「正一位上」~「従五位下」)は官人(官僚)でした。ただし、武士は官位・官職制度に組み込まれていないため、執権はじめ国政を担当する上級武士でも官人とは呼ばれませんでした。

 

そして、朝廷には平安時代から律令に基づいた俸禄・退職制度があり、官人(高級貴族、殿上人)に対しては恩賞(退職金)と恩給(年金)が支給されたといいます。

 

【平安・鎌倉貴族はサラリーマンである】

中世ヨーロッパ貴族は自分の領地から年貢を取り立て生計を立てていたのに対し、平安貴族は自身が所有している荘園からの年貢は少なく、朝廷から支給される高額な俸禄(俸給)によって生計を立てていました。

 

平安貴族の俸禄

従って、中世ヨーロッパ貴族が個人事業者とすれば、平安・鎌倉貴族は律令制に基づいて天皇が任命したサラリーマン(官人、官僚)ということになります。

鎌倉時代、朝廷は政治権力を失い財源は激減し、官人の俸禄も低くなりましたが官位・官職制度は維持しました。

吉田兼好は、1301年18歳の時、官位「正六位」、官職「蔵人(くろうど)」を得て後二条天皇の御代の朝廷に出仕し、1307年(24歳)の時、官位「従五位上」、官職「左兵衛佐(すけ)」に昇進しました。

 

1313年(30歳)(推定)の時、兼好は官位 従五位上で早期退職しましたので満額は無いですが、それなりの恩賞(退職金)と恩給(年金)をもらえたと思われます。

 

【語彙】

[蔵人所(くろうどどころ)] 機密文書の記録・管理、天皇からの命令伝達、天皇の身の回りの雑務を行う機関。

蔵人は官位「六位」から始まるが、蔵人にかぎり、殿上を許される。

[別当] 定員一人。蔵人所の総裁。左大臣や右大臣が兼任。

[頭(とう)] 定員二人。蔵人にかぎって、蔵人頭を「くろうどのとう」と頭を「とう」と読む。

他は内蔵頭(くらのかみ)、左馬頭(さまのかみ)など頭を「かみ」と読む。

[頭の中将] 従四位下近衛府の中将と蔵人所の頭を兼任した官人の通称。

例:光源氏のライバル、保元の乱で敗死した藤原頼長

[左兵衛府] 建礼門や建春門など内裏の中郭諸門の警備を担当

[左兵衛佐] (さひょうえのすけ)] 官位は従五位上、官職は次官(すけ)に相当する。

従五位下の恩賞と恩給)】

官位 従五位下の恩賞(退職金)であるが1ランク上の従五位上はこれより上と推定。

土地の場合:約10町歩(現代の約1万坪)

金銭の場合:約10貫文(文永通宝)

恩賞(退職金):約100万円~数億円

年々の恩給(年金):約10万円~数十万円

*文永通宝(ぶんえいつうほう)は鎌倉時代に鋳造された銅銭。

*当時の10貫文は現代の約100万円から数億円に相当すると推定される。

*当時の武士の生活費は現代の約10万円から数10万円程度と推定される。

蔵人所

天皇に近侍し、伝宣(天皇の意志を伝達)・進奏(天皇への申し上げ)・儀式・雑事。

別当は左右大臣が兼任。

*官位 正二位 官職 別当蔵人、四部官制 長官(かみ)

*官位 五位   官職 五位蔵人四部官制 次官(すけ)

*官位 六位   官職 六位蔵人、四部官制 判官(じょう)

近衛府

左近衛府(さこのえふ) : 内裏の内郭諸門の警備

右近衛府(うこのえふ) : 行幸の時に警備

*官位 従三位、  官職 大将(たいしょう)、四部官制 長官(かみ)、

*官位 従四位下、官職 中将、四部官制 次官(すけ)

*官位 正五位下、官職 少将、四部官制 次官(すけ)

*官位 従六位上、官職 将督(しょうげん)、四部官制 判官(じょう)

*官位 従四位下、官職 将曹(しょうそう)、四部官制 主典(さかん)

衛門府

左衛門府(さえもんふ) : 内裏の外郭諸門の警備

右衛門府(うえもんふ) : 行幸の時に先駆を担当

*官位 従四位下、官職 督(かみ)、四部官制 長官(かみ)

*官位 従五位上、官職 佐(すけ)、四部官制 次官(すけ)

*官位 従六位上、官職 大尉(たいじょう)、四部官制 判官(じょう)

*官位 正七位上、官職 少尉(しょうじょう)、四部官制 判官(じょう)

*官位 正八位下、官職 大志(だいさかん)、四部官制 主典(さかん)

*官位 従八位上、官職 少志(しょうさかん)、四部官制 主典(さかん)

兵衛府

左兵衛府(さひょうえふ) : 内裏の中郭諸門の警備

右兵衛府(うひょうえふ) : 儀式の時に儀仗(ぎじょう)を持ち、行幸時に行列の前後を守る。

官位および官職の督(かみ)、佐(すけ)、大尉(たいじょう)、少尉(しょうじょう)までは「衛門府」と同じである。

官職の大志(だいさかん)と少志(しょうさかん)が衛門府と同じだが官位がそれぞれ1ランク下である。

*官位 従八位上、官職 大志(だいさかん)、四部官制 主典(さかん)

*官位 従八位下、官職 少志(しょうさかん)、四部官制 主典(さかん)

【参考】

1.「さかのぼり日本史⑧室町・鎌倉“武士の世”の幕開け」 本郷 和人 NHK出版 2012.3.25

2.「紫式部藤原道長 歴史街道」 村田共哉/編 PHP研究所 2024.2月号

3.「官職要解 講談社学術文庫」 和田英松 講談社 1983.11

4.「誰でも読める日本古代史年表」 吉川弘文館編集部/編 吉川弘文館 2006.12

5.「新編日本古典文学全集44 徒然草」、校注・訳 永積 安明 小学館、1995.3.10

6.「平安大事典」 倉田実/編 朝日新聞出版 2015.4

7.「日本歴史大系 3」 井上 光貞/[ほか]編 山川出版社 1995.11

8.「日本史年表・地図」 児玉 幸多 吉川弘文館 2013.4.1

 

コロナ感染第10波は11週連続増加後2024年2月4日をピークにして3週連続減少中。

コロナ感染者

世の中の関心事はMLB大谷翔平選手や日経平均株価がバブル期の最高値をしのぐ4万円越えなど明るいニュースに行き、また、コロナ感染によるリスクが小さくなったこともあり、コロナ感染症について関心が薄くなっているようですが、依然としてコロナ感染流行は続いています。

ただ、コロナ感染第10波も3週連続で減少していることが明るいニュースです。

 

新型コロナウイルス感染症の流行は2023年11月19日の週の感染者9,750人(1医療機関当りの感染者数1.95人)を第9波の底にして、再び感染増加が始まり、コロナ感染第10波となって続きました。

 

年が明けても増加を続け、2024年2月4日の週のピークの感染者80,750人(1医療機関当りの感染者数16.15人)まで第10波は11週間(約3カ月)増加を続きましたが、ここで増加が止まり、減少に転じました。

そして、3月2日に厚労省が発表した2月19日から2月25日までの1週間の1医療機関当り感染者数は7.92人(39,600人)と3週間連続で減少しています。

 

新型コロナウイルスによる国内感染数一覧
(なお、全数把握値は痩田の概略換算値です。)
2022年9月17日~2024年2月25日
(単位:人)
日付              定点把握 全数把握
9月17日(9/11~9/17)    17.54  87,700   第9波(ピーク)
10月15日(10/9~10/15)   3.76  18,800
11月5日(10/30~11/5)    2.44  12,200  第9波(減少中)
11月12日(11/6~11/12)   2.01  10,050  
11月19日(11/13~11/19)  1.95   9,750  第9波(底)
11月26日(11/20~11/26)  2.33  11,650  増加に反転 新変異ウイルス「NA.1」
12月03日(11/27~12/03)  2.75  13,750  第10波(増加中)
12月10日(12/04~12/10)  3.52  17,600
12月17日(12/11~12/17)  4.15  20,750
12月24日(12/18~12/24)  4.97  24,850  第10波(増加中)
12月31日(12/25~12/31)  5.79  28,950
1月 7日( 1/ 1~ 1/7 )  7.38  36,875
1月14日( 1/ 8~1/14)   8.96  44,800
1月21日( 1/15~ 1/21) 12.23  61,150 第10波(拡大中)
1月28日( 1/22~ 1/28) 14.93  74,650
2月04日( 1/29~ 2/4 ) 16.15  80,750 第10波(ピーク)
2月11日( 2/5 ~ 2/11) 13.75  68,750 第10波(減少に転換)
2月18日( 2/12~ 2/18) 10.10  50,500
2月25日( 2/19~ 2/25)  7.92  39,600 第10波(減少中)
***********************************************
*定点観測値のコロナ感染状況判断基準
(1病院当り1週間の合計感染者数)
1病院当り感染者 -------  1人 ------- 流行入り
1病院当り感染者 ------- 10人 ------- 注意報
1病院当り感染者 ------- 30人 ------- 警報
************************************************

 

陰暦令和6年二月大(西暦2024年3月)の太陰太陽暦カレンダー

陰暦令和6年二月(大)

令和6年二月(大)カレンダー

今日、西暦2024年3月5日は旧暦(陰暦)の令和6年1月25日で、すごもり虫が戸を開き、地上に這い出してくる二十四節気の第三番目 啓蟄(けいちつ)という春の到来を感じさせる二月節が始まりました。
しかし、陰暦令和六年二月はまだ始まっていません。

陰暦(太陰太陽暦)の二月カレンダーの始まりは啓蟄に近い新月の陰暦2月1日(西暦3月10日)で、陰暦二月カレンダーの終わりは次の新月の前日となる陰暦2月30日(4月3日)です。
なお、陰暦令和六年二月は30日あり、大の月になります。

二月節は西暦3月5日~3月19日で、
陰暦の1月25日~2月10日までの二十四節気の第三節気 啓蟄
をいい、七十二候の
第七候 すごもり虫、戸を啓(開)く。
陰暦1月25日~1月29日、西暦3月5日~3月9日
第八候 桃始めて咲く。
陰暦2月1日~2月5日、西暦3月10日~3月14日
第九候 菜虫蝶となる。
陰暦2月6日~2月10日、西暦3月15日~3月19日
を言います。

二月節 啓蟄(15日)と陰暦二月の前半15日は5日ずれて重なります。

二月中は西暦3月20日~4月3日で、
陰暦の2月11日~2月25日までの二十四節気の第四節気 春分
をいい、七十二候の
第十候 雀始めて巣くう。
陰暦2月11日~2月15日、西暦3月20日~3月24日
第十一候 桜始めて咲く。
陰暦2月16日~2月20日、西暦3月25日~3月29日
第十二候 雷始めて声を発す。
陰暦2月21日~2月25日、西暦3月30日~4月3日
をいいます。

二月中 春分(15日)と陰暦二月の後半15日は5日ズレて重なります。

 

医薬と農耕の神「神農」と神農が残した漢方薬では役に立ちなかった疫病に対処した陰陽師

草を嚙む神農図

地球上の至る所に移動した人類が、定住し、安全な食物を栽培して主食となる食料を得るようになる以前は自然に存在する水、野草・木の実・キノコなど草木、鳥・獣、魚・貝など手当たりしだい口にしたに違いありません。

太古の人々が最も恐れたものは病(やまい)や毒に当たる食べ物だったと思います。キノコは美味く、栄養がありますが、毒キノコもあり、それを食べ、毒にあたり、苦しみ、命を落とすことがしばしばありました。

そんな中、紀元前3000年頃、古代中国に人身牛首(じんしんぎゅうしゅ)の姿をした胸と腹の部分だけが透明で、内臓が外からはっきり見えるという異様で摩訶不思議な老人が現れます。(参考1~4)

老人は赭鞭(しゃべん、赤いむち)で百草(たくさんの草木)を払い、それを口に入れて毒の有無や効能を確かめました。もし悪いものを食べると透明な体から見える内臓は黒くなり、毒があるかどうかを確認できたそうです。

老人はその体であらゆる草木を吟味して民衆に食用と毒草の違い、飲用水の可否など民衆に知識(医薬)を広め、また五穀(稲、粟、小豆、麦、豆)の栽培方法や木を加工した農具を作り(農耕)を広めたといわれています。さらに食用・医薬となる草木や作物の物々交換する市場を開き、民衆を呼び寄せたことで店ができ、周辺の集落に広がり、交易が始まったと伝えられています。

薬草探究の毒見で一日に70回も毒に当たり、その最期は猛毒のある断腸草を咬んだことで亡くなったと言われています。享年120歳でした。いつしか、その老人は医薬と農耕の神として崇められるようになり、神農と呼ばれるようなりました。

神農は世界最古の本草書「神農本草経」にその名を残したということです。

神農の話は歴史として認められる中国最初の王朝「殷」の時代よりさらに1600年さかのぼった話であり、神話として伝えられ、「伏羲(ふつぎ)、黄帝そして神農の三人の帝王を中国神話の最上位に置き、神「三皇」と呼ばれ、崇められています。

【三皇】

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【神農の体を張って得た医療の知識や知恵も役立たない感染症
神農が残した医薬やその後発展した医薬・医療も知識もほとんど役にたたなく、人々が次々と倒れていく「はやり病(やまい)」がありました。(参考1)

2020年から2024年2月現在も増加を続けている新型コロナウイルスやインフルエンザのような微生物の病原体(ウイルスなど)が周りの人に飛沫で乗り移り、引き起こす「疫病(感染症)」です。

例えば、平安時代の995年(長徳元年)1月、疫病が流行し、藤原兼家の長男、 関白 道隆43歳、を含む納言(なごん)以上2人、四位7人、五位54人の計63人の上級貴族が死亡しました。(参考6)

藤原兼家は990年62歳で既に亡くなっており、次男の藤原道兼は、疫病で亡くなった長男道隆から関白を継承したが、わずか4ヵ月後の995年5月に35歳で死亡しました。

三男の藤原道長は朝廷に23歳で朝廷に出仕して7年の間に、父兼家をはじめ彼の2人の兄(異母兄の道綱を除き)も、また道長より上席にあった公卿のほとんどが死去したことにより、わずか30歳で右大臣に昇進して繁栄の基礎を築くことになりました。(参考7)

このように平安時代の始め頃からたびたび起こる原因不明な疫病や災害に朝廷で国政を担う天皇・上級貴族はじめ一般民衆は生命・財産を守るすべがなく、おびえと不安を抱えながら生活していました。

疫病や災厄のしわざは物の怪(もののけ、生霊、死霊、邪気)が人の体にとりついてたたると信じられていました。

物の怪(もののけ)による不安がまん延していた平安時代中期、当時の最先端技術を持つ陰陽師の天体の動きなどからの吉凶占いや祓(はらえ)や祈祷は、物の怪の取り除きに効果があり、民衆の不安が軽減されるとして、神官や僧侶の法力による加持祈祷を越え、評判になりました。(参考8)

ゴーストバスター(物の怪退治)として頭角を現した安倍晴明は朝廷の権力者藤原道長に重用されるようになり、陰陽道は保護を受け、主導権を握りるようになったといいます。
(天文道の安倍晴明と暦道の賀茂保憲が認められ、安倍氏とその嫡流末裔「土御門家」が天文道の宗家、賀茂氏とその嫡流末裔「勘解由小路家(かでのこうじけ)」が暦道の宗家として世襲していくことになる。参考5)

現代においても新型コロナウイルス感染症が大流行し、2020年後半まではワクチンなど予防・治療薬がないためいつコロナウイルスに感染し、発症するかかわからなく、不安で心が不安定になり、生活に影響を及ぼしました。

ましてや、感染症に対する医療体制や薬がない平安時代、疫病や災厄は物の怪(生霊、死霊、邪気)のたたりと信じられ、疫病が広がった時、人々はいつその「物の怪」にとりつかれ、いつ疫病になり、命がなくなるか恐怖と不安は相当なものだったに違いありません。

そんなとき、陰陽師は疫病をもたらす悪霊「物の怪」を退散させ、人々を恐怖と不安から解放し、安全・安心を与えてくれたのです。

【参考】
1.「日に70種の薬を発見!古代中国・人身牛首の医神」薬の世界見聞録Vol.1、米田正基、山崎幹夫アストラゼネカ(株)
2.「漢人物」作者・出版社・発行日不明、齋藤蔵書
3.「神農」フリー百科事典ウィキペディアWikipedia
4.「三皇」フリー百科事典ウィキペディアWikipedia
5.「陰陽道宗家」フリー百科事典ウィキペディアWikipedia
6.「日本古代史年表」吉川弘文館編集部、(株)吉川弘文館、2006.12.10
7.「日本歴史大系3 貴族政治と武士」井上光貞、永原慶二 編、(株)山川出版社、1995.11.15
8.「平安大事典 図解でわかる「源氏物語」の世界」倉田実 編、朝日新聞出版、2015.4.30

 

陰暦令和6年正月小(西暦2024年2月)の太陰太陽暦カレンダーとコロナ感染流行総括

陰暦令和6年正月小の絵

令和6年正月小のカレンダー

太陽暦(西暦)の2024年2月4日(日)は見かけ上太陽が地球を1周する1年(二十四節気)の第一節気「立春」にあたり、太陰太陽暦(陰暦、旧暦)の「正月節」でこの日を境に春が始まります。

そして「立春」に近い新月の日が陰暦(旧暦)の正月元旦(陰暦令和6年1月1日)で西暦2024年2月10日になります。

お隣中国は2月10日(土)(陰暦1月1日)から2月17日(土)(陰暦1月8日)まで春節休み(正月休み)で2月18日(日)を入れると8日間のゴールデンウイークになり、中国国内は帰省や旅行で大賑わいすると思われます。

陰暦(太陰太陽暦)は日にちがズレますので旧正月もズレます。4年前の2020年1月24日(陰暦12月30日)から始まった春節休みで中国から観光客が大勢来日しました。

しかし、2020年の春節から始まったコロナ感染流行から4年の間に世界の政治・経済・社会環境は一変してしまい、日本と中国の関係も悪くなり、中国から観光客が日本に大挙押しかけることはないと思われます。

2020年:
立春 2020年2月4日(陰暦 1月11日)、中国春節 2020年1月25日(陰暦1月1日)
2020年は陰暦の閏年新暦5月23日の新月の日に閏月(閏4月1日~29日)を追加し13ヵ月でした。

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2021年:
立春 2021年2月3日(陰暦12月22日)、中国春節 2021年2月12日(陰暦1月1日)

2023年:
立春 2023年2月4日(陰暦1月14日)、中国春節 2023年1月22日(陰暦1月1日)
2023年は陰暦の閏年新暦3月22日の新月の日に閏月(閏2月1日~29日)を追加し13ヵ月でした。

2023年は旧暦では閏年でした。

 

2024年:
立春 2024年2月4日(陰暦12月25日)、中国春節 2024年2月10日(陰暦1月1日)

2020年の春節休みの頃は運悪く、中国武漢新型コロナウイルス感染症が発生し、来日中国人によってウイルスが国内に入り、感染が拡大しました。

4年前の2020年1月31日頃のコロナ感染者は中国約9,000人、日本14人程度でしたが、2021年になっても新型コロナウイルスの感染は止まらず、2021年1月8日は国内の1日感染者7,900人(累積感染者数:27万5千人)と感染流行は拡大しました。

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そして、コロナ感染者数の大きな波と小さい波の増加と減少を繰り返し、医療機関が対応不能寸前までの大流行(パンデミック)を起こす巨大な波が2020年1月から2023年4月まで第1波から第8波まで襲来しました。

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2023年3月頃になると新型コロナウイルスの毒性が以前と比べ弱まり、そしてワクチンや治療薬も増えてきて、重症化リスクが低下したことにより、医療崩壊の恐れがなくなり、5月から法的分類を2類から5類の季節性インフルエンザ並みに移行しました。

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この結果、コロナ陽性者の届け出が不要になり、陽性者の医療機関受診や外出や集会などの規制が緩和されました。2023年中頃から後半にかけ、ようやく、通常の社会生活に戻り始めました。

しかし、コロナ感染者の増加と減少はこれまでどおりで大波小波を繰り返しています。
2023年5月からの第9波が始まり、10月末には収束に向かうと期待するも再び感染増加が始まり、第10波となり、2024年2月現在も続いています。

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コロナ感染第10波が襲来中ですが、それなりの予防策を取りながらでも(もし感染しても重症化リスクを免れることが広く周知されるようになり)、本来の生活が取り戻せたことはなによりです。

 

コロナ感染は風邪と同様に消滅することはないと遅まきながら気が付き第10波の行く末を見極めた後感染者数推移グラフ作成を終了します

コロナ感染者数推移グラフ

政府は2023年5月、コロナウイルスの毒性が弱くなり、重症化リスクが低くなったのでインフルエンザと同じ扱いにすると発表しました。

しかし、私はコロナウイルスに対しての恐怖感が抜き切らず、4カ月を経てようやく恐怖感がなくなり、喫茶店や図書館通いが増えました。するとそのとたん、2023年9月中旬にコロナに感染してしまいました。幸い、風邪程度で後遺症もなく済みました。

 

この第9波を最後にコロナ感染流行は収束に向かうものと思っていました。

しかし、11月から再び感染が増加し、2023年12月17日の時点で4週連続で増加しました。
さらに年が明けても増加を続け、2024年1月27日に厚労省が発表した1月15日から1月21日までの1週間の感染者数は1医療機関当りの感染者数は12.23人と9週間連続で増加しています。

2023年5月から11月まで「第9波」の感染流行させた「オミクロン株」が新たに「JN.1」という変異株に変身して感染を拡大しており、遂にコロナ感染流行第10波になってしまいました。

私は「コロナ感染は収束する」と思い込んでいましたが、風邪が完全に無くなることがないと同じようにコロナも完全に無くならないということが遅まきながら気がつきました。

日本で初めてコロナ感染が始まった3年間前から毎月コロナ感染者数推移グラフを作り、痩田肥利太衛門残日録その二「ブログ」に載せてきましたが、この第10波が減少に転じた頃を見計らい終了したいと思っている今日この頃です。

新型コロナウイルスによる国内感染数一覧
(なお、全数把握値は痩田の概略換算値です。)
2022年9月17日~2024年1月21日
(単位:人)
日付              定点把握 全数把握
9月17日(9/11~9/17)    17.54  87,700   第9波のピーク
10月15日(10/9~10/15)   3.76  18,800
11月5日(10/30~11/5)    2.44  12,200
11月12日(11/6~11/12)   2.01  10,050
11月19日(11/13~11/19)  1.95   9,750  新変異ウイルス「NA.1」
11月26日(11/20~11/26)  2.33  11,650  第10波(流行入り)
12月03日(11/27~12/03)  2.75  13,750
12月10日(12/04~12/10)  3.52  17,600
12月17日(12/11~12/17)  4.15  20,750
12月24日(12/18~12/24)  4.97  24,850
12月31日(12/25~12/31)  5.79  28,950
1月 7日( 1/ 1~ 1/7 )   7.38  36,875
1月14日( 1/ 8~1/14)   8.96  44,800
1月21日( 1/15~ 1/21) 12.23  61,150 第10波(流行拡大中)

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*定点観測値のコロナ感染状況判断基準
(1病院当り1週間の合計感染者数)
1病院当り感染者 -------  1人 ------- 流行入り
1病院当り感染者 ------- 10人 ------- 注意報
1病院当り感染者 ------- 30人 ------- 警報
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本居宣長の義理の曾孫で幕末・明治期に活躍した国学者・歌人 本居豊頴(もとおり とよかい)が評論した田道間守(たじまもり)

田道間守慟哭の絵

田道間守の評論文語意調査表

私は公爵、伯爵などの爵位や博士の学位を持つ明治時代の有名人が尊敬に値する人物を評論した明治32年発行の「明治名家古人評論」という文庫本サイズの祖父の蔵書を持っています。

これまで、その中から「ラ・ファイエット」、「上杉謙信」、「鄭成功」を取り上げ、ブログで紹介しましたが、今回は「お菓子の神様」の田道間守(たじまもり)について紹介します。

今回のテーマ「田道間守」を評論した本居豊頴(もとおり とよかい)」という人は教育者・評論家の「杉浦重剛」と同様、この時点では爵位や官位や博士号を持っていませんが、その後国学者歌人として日本文化の発展に貢献し、官位や博士号や勲章を授与されています。

yaseta.hateblo.jp

本居豊頴は「源氏物語」「万葉集」「古事記」などを論じ、「古事記伝」を著作した本居宣長(もとおりよりなが)の義理の曾孫であり、古典文学などに多くの著作を残し、正三位の官位と勲章「旭日重光章」を授与された紀州藩出身の国学者歌人でした。
(下記 参考1)

【田道間守(たじまもり)とは】
古事記日本書紀の中の垂仁天皇の時代の神話の人物で、但馬の国の国守と伝えられています。
田道間守は第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)に命じられ、常世国(とこよのくに)の非時香菓(ときじくのかくのみ)を求め旅立ちました。そして、幾多の困難を乗り越え、10年の歳月かけ、非時香菓を持ち帰りました。

しかし、既に遅く、垂仁天皇崩御されていたため、香りの良く、八竿八縵(やほこやかげ)のように実がなっている非時香菓を御陵に献じ、落胆のあまり泣き叫び、亡くなったと伝えられています。

田道間守が持ち帰った霊菓 非時香菓(ときじくのかくのみ)は、橘(たちばな)の木であるとされていいます。また、この霊菓をもたらしたことで、田道間守は「菓子の祖」(昔は果物も菓子とみなされていた)とされ、中嶋神社の祭神として和菓子業者より崇敬(すうけい)を受けています。

【明治名家古人評論 田道間守(たじまもり)】
執筆者「幕末・明治期の国学者歌人 本居豊頴(もとおり とよかい)」

田道間守(たじまもり)は新羅國(しんらこく)より帰化したる天日槍(アメノヒボコ)の裔(えい)にて、垂仁天皇の御時に命(めい)を蒙(こおむ)りて常世國(とこよのくに)に渡り、非時香菓(ひじこうか)を求得(もとめ)て来たりし人なり。

然るに帰朝の前、既に天皇は崩(ほう)し給(たま)へるを以て大(おおい)に落胆し、遂に天皇の陵前(りくぜん)に於(おい)て死したり。

然るに其の死したる状(じょう)を記せる伝説二ありて、

古事記には
『擎其木實、叫哭以白“常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍”遂叫哭死也』
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・上記文章の意味
『その木の実を擎(かか)げて叫(さけ)び哭(おら)びて白(申、もう)さく、“常世国(とこよのくに)のときじくのかくのみを持ちて参上(まい)りて侍(はべら)ふ。” 遂に、叫哭(泣き叫び)のあまり、死に絶えました。』
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とありて、叫哭(きょうこく)の余りに死に及(およ)へるゑ(え)り

日本書紀には、
『今天皇既崩、不得復命、臣雖生之、亦何益矣」乃向天皇之陵、叫哭而自死之』
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・上記文章の意味
『今、天皇はすでに亡くなり、復命(報告)ができず、臣(田道間守のこと)は生きていても、何の益があろうか。」 天皇の陵(みささぎ)に向かい、叫哭(きょうこく)し、自害しました。』
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とありて、自ら死を決し剣に伏したる状(じょう)なり、

いずれが是(ぜ)ならん。
今之を決せんとするに証なき以上は、いづれを非とも定め難き事ながら、既に先輩も論じたるが如く、
当時の実況と当時の人情とを以て之を察すれば、
古事記の伝説即ち事実にして、日本書紀の文は撰者の潤飾(じゅんしょく)ゑ(え)ると明らかなり。(潤飾(じゅんしょく):表面をつくろい飾ること)

垂仁天皇の頃の人情の質朴実着なるに、
「臣雖生之、亦何益」などいう理論めきたる事はいうべきもあらず。
(臣(田道間守)は生きていても、何の益があろうか)

故に田道間守はただ誠一に天皇の命を奉じて辛苦を顧みず、
単身渡航して得て帰れる非時香菓を天皇の御在世中に献ずるを得ざるしを
悔いて已(や)む能(あた)はざりし単純の熱心の極(きょく)、
遂に死にいたれりにて、愚かなるが如くなれども、
上古人の単純なる士気皆かくの如くゑ(え)りしを知るべきなり。

海行かは、みつく(水漬く)、かはね(屍)、山行かは、草むす骨、などいえる語あるも亦之を以て察すべし。
(海では溺れて死んだ人の屍が海水に溶け消えていく、山では遭難して死んだ人の屍が草に覆われて骨になる)

近世のことと雖(いえど)も史に記せると其の内幕の事実とは大(おおひ)に反したる事無き能(あた)わず、
況(いわん)や上古の事実を見んとするには先能く当時の現状を察せしずて記文の美なるをのみ取らば大いなる誤りとなりぬべし。
(近世の出来事といえども、歴史書に記された出来事と当時の実際の出来事とは必ずしも一致しているとは限らない。ましてや古代の出来事であれば歴史書の美文だけで判断すれば間違ってしまう。)

此のころある学校にて生徒の為にこの天皇の紀を講ずとて心に感ずることありしついでに概論したるかたはしなり。
(ある時期、ある学校で、生徒のために天皇の紀を講義したとき、心に感ずることがあり、そのついでに概論をした。“かたはし:江戸時代の文語体で物事の端や末端、あるいは、ある物事の始まりや終わりを表す言葉”)

因みに云う非時香菓といふは日本書紀に今(いま)謂(い)ふ橘(たちばな)是(これ)也(なり)と注(しう)したれど、
今日世にタチバナと称するものには限らず、橘柑(きっかん、柑橘)の類の総称にて現に田道間守の持ち帰りしは蜜柑(みかん)なるか橙(だいだい)か、
其れは詳(つまびらか)ならねど、上古にタチバナといひしは其の味好(よ)き物なるは明かなり。

諸兄公に橘姓を賜(たま)へる時のにも、橘は菓子之長とあり、又後世、橘の歌には必ず昔を慕ふ意(こころ)を詠(ゑい)ずる事なるか、

何の故なるか詳(つまびらか)ならねど、
この田道間守の故事より出たる習慣ならんと或る人はいへり、然(さ)もあるべし。

【参考】
1.本居豊穎の経歴
天保5年(1834年紀州和歌山生れ、大正2年(1913年)死去。
本居 豊穎(もとおり とよかい)
本居宣長の義理の曾孫で幕末・明治期に活躍した国学者歌人
本居内遠 死去後、母 藤子の教導を得て家学を修める。
父の後を継いで紀州藩の江戸藩校 古学館の教授となる。
明治維新後、政府・東京神田神社神祇官神道大教正として神道の振興に尽力した。
女子高等師範学校教授、東京帝国大学講師、國學院講師を歴任した。
大正天皇の皇太子時代には東宮侍講・御歌所寄人を勤める。
1906年に帝国学士院会員になる。
国学・和歌の興隆を願って大八洲学会を主宰した。
明治24年(1891年)三条実美が死去した際に葬儀斎主を務めた。
明治34年(1901年) 従四位 授与される。
明治39年1906年正四位 授与される。
明治42年(1909年) 業績により文学博士号を授与される。
大正2年 (1913年) 正三位、 勲章「旭日重光章」授与される。
古今和歌集講義」「本居雑考」「打聴鶯蛙集」や歌集「秋屋集」「秋屋集拾遺」、祭詞集「諄辞集」など著書・訳書・編書多数。
2.「明治名家古人評論」 勢多 章之,博文館,1899.12.16(明治32年)